↑ 1975年5月にネブラスカ州オファット空軍基地で撮影された9th TFSのF-4D/66-7544。判りにくいが、尾翼のフィンチップは、緑色である。9th TFSの当初のテールレターは、”HD”。
↑ 1976年3月にアリゾナ州デービス・モンサン空軍基地で撮影された8th TFSのF-4D/66-7668。インテーク横には建国アメリカ200周年のマークが張られている。
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F-4D 49th TFW / Holloman AFB
(F-4D 1967~1978)
Insignia of 7th TFS
(Finchip Blue)
この航空団は、第二次大戦後の1948年三沢基地で発足したが、その後欧州とのかかわりが強く、F-4Dの配備を受けるまでの間、NATOの構成部隊として活動していた。F-100 F-105D/F時代は、フランスのエタン・ルーブル空軍基地や西ドイツのスパンダーレム空軍に駐留をしていたが、ベトナム戦での戦費の高騰で、当時の国防長官ロバート・マクナマラが多くの在欧米軍をアメリカ本土に戻した時に、第49戦術戦闘航空団(49th TFW)もニューメキシコ州ホロマン空軍基地に配備された。但し、この時点での在欧米空軍の予備基地としての役割は変わらず、その役割を負っていたようであるが、ベトナム戦が激しさを増すと、1972年からラインバッカー作戦で北爆に参加している。1977年にF-15A/Bの4番目の航空団に改編されるまで、F-4Dの航空団として活躍していた。
↑ 1975年西ドイツのビットブルグに展開した時に同航空団の司令官指定機となっていたF-4D/66-7749。他の機体と違いテールレターにステンシルの切れ目は無く、航空団のナンバーである”49”とシリアルの最後の”49”を合わせたもの。
↑ 航空団の各飛行隊が、飛行隊毎に異なるテールレターを付けていた時代のもので、Hollomanの”H”だけが共通で、"HB""HC" "HD""HE"の4種類のテールレターが存在していた。F-4D / 65-0590は、8th TFSに所属していた。パッケージポッドにもブラックシープのインシグニアが入っていた。
↑ 1971年頃 49th TFWの司令官機に指定されたF-4D/65-0666。当時 同航空団の傘下にあった417th TFSの管理下にあった機体で、”6”のぞろ目が司令官機として好まれたらしい。この機体は、後に嘉手納の18th TFWに移動し、日本でも見る事が出来た。
↑ 1975年3月と12月にアリゾナ州デービス・モンサン空軍基地で撮影された8th TFSのF-4D/65-0768。撮影時期は異なるが、撮影場所と機体は同一である。8th TFSの当初のテールレターは、”HE”、同飛行隊は、1978年にF-15A/Bに改編した。
↑ 1976年8月にアリゾナ州ルーク空軍基地で撮影された417th TFSのF-4D/66-7591。417th TFSは、当初”HE”と言うテールレターだった。1978年にラムシュタイン基地に派遣された後に、航空機と人員を他の部隊に移して、ペーパースコードロンになっている。現在は、エドワーズ空軍基地でテスト飛行隊として復活。
(Finchip Green)
Insignia of 417th TFS
Insignia of 9th TFS
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(Finchip Red)
↑ 1975年9月に当時の西ドイツ ビットブルグ空軍基地で撮影された417th TFSのF-4D/66-0270。1975年のクレステッドキャップ演習に参加の為、同飛行隊は1969年から1970年まで西ドイツのハーン空軍基地に派遣されているが、その後も東南アジア、ヨーロッパなどへの派遣が多かった。写真の左手に尾翼の一部だけ写っている機体は第49戦術戦闘航空団の司令官機 F-4D/66-7749
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Insignia of 8th TFS
(Finchip Yellow)
↑ 1977年8月にノースダコタ州ヘクター空軍基地で撮影された第7戦術戦闘機中隊(7th TFS)のF-4D/66-7626。7th TFSは、当初”HB”をテールレターとしていた。1977年ホロマンの3個飛行隊の中で、一番先にF-15A/Bに更新を行っている。